コーヒーに興味のないバリスタ

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Z世代

かつて一緒に働いた、いわゆる「Z世代」にカテゴライズされる彼らには大変に悩まされましたが、世代を言い訳にするのも何か違っていました。そもそも世代がどうとは関係なく年代的にアイデンティティに葛藤せざるを得ない年齢で、東京であっても福岡であっても親元を離れ自立し始めたスッタフがほとんどでした。学業に進路、友人関係にデジタルネイティブ世代としてSNSの影響も強く受ける年頃でしょう。加えてノートとペンのようにPCを見事に使いこなす姿は私たちの時代と比べても随分と違っています。さらにはハラスメントに非常に敏感な時代性も相まって、実は私たちに求められるモノに、私自身の適応が遅れていたのだとそう反省もしました。

しかし、とは言え、です。専門職としてのバリスタに求められるハードルは、時代が変わっても下がることはありません。むしろ、インターネットで容易に情報を得られる現代では、正確な知識と根拠がより重要視されています。例えアイデンティティの養分だとしても、マウントを取る姿勢は火傷の元。リスクしかありません。

拙いバリスタが増える状況は避けられないかもしれません。が、若い世代が自信を持ってバリスタを目指せるよう、正しい知識と文化が広まる環境が整うことを私は強く望んでいます。

バリスタとは

そもそもバリスタとは何でしょうか。「Barista」という言葉はイタリア語に由来し、「バールで働く人」という意味を持ちます。イタリアの「バール(Bar)」は、カフェのような軽食やコーヒーを提供する場所を指し、バリスタはその場でお客様に飲み物を提供する専門職です。「Bar」と「ist(~家)」に分解すると、視覚的に理解しやすくなるでしょう。

一般的に「バリスタ」というと、エスプレッソマシンを駆使し、さまざまなラテアートを提供する職業というイメージがあ流のではないでしょうか。バーテンダーを思い浮かべれば、彼らがシェイカーを振りながらカクテルを作る姿が連想されるのと同じように、バリスタはエスプレッソを抽出し、美しいカフェラテを仕上げる姿が象徴的です。

しかし、バリスタの仕事はそれだけではありません。バーテンダーが膨大なお酒の知識を求められるように、バリスタにも幅広い知識と技術が求められます。

  • エスプレッソマシンの操作:完成されたエスプレッソを抽出するための技術。
  • 味の調整:豆の種類、焙煎度、抽出条件を考慮し、最適なバランスを探る能力。
  • スチーミング:美しいフォームドミルクを作るためのテクニックの繊細さ。
  • ラテアート:見た目の美しさは商品価値に直結する。
  • 包括的なコーヒー知識:豆の産地や特徴、焙煎の違いその他諸々を理解する能力。
  • 接客力とプレゼンテーション技術:お客様とのコミュニケーションや商品説明。

バリスタの役割とは、単にコーヒーを淹れることだけでなく、「お客様の時間を彩る演出家」としての責務を果たすことにあります。

「バリスタ」とは、世界中で共通して使用される呼称です。日本では、スターバックスが「バリスタ」という言葉を広めた一因と言えるでしょう。あの素晴らしい接客技術やブランドの統一感は、バリスタの役割を忠実に全うしていると感じます。

バリスタは単なるコーヒー提供者ではなく、コーヒー文化を担う重要な存在でもあります。毎年世界各地で開催されるバリスタ競技会やラテアートの大会などにより、この職業の地位や魅力は高まり続けています。バリスタを「~士」のような専門職として確立し、社会的な認知度がさらに向上していく世界を少なくとも私は目指しています。

コーヒーに興味のないバリスタ

私が東京から福岡にかけて活動した2020年から2024年の期間中、多くの若いスタッフと一関わってきました。この時期の私の挑戦の一つが、私の持つ技術や知識をどれだけ若手にトレースできるかということでした。業務のオペレーションをマニュアル化し、標準化する力は随分と鍛えられました。しかし、それと同時にいくつかの課題にも直面したのです。

多くの20代前後のスタッフは、ラテアートの練習には非常に熱心でしたが、コーヒーそのものへの知識にはあまり興味を示しませんでした。基礎的でもっとも大事なことと思っていたエスプレッソの味の調整にすら同様で、牛乳が大量に消費されるたびに無力感を覚えたのを思い出します。若さを名刺代わりに、お客様にコーヒーの知識が拙いことを堂々と説明する姿に違和感を覚えることもありました。

マニュアルは「ノータイムノーアイデア」。マニュアルを忠実に実行さえすればプロに見える姿までは教育ができます。勉強会が開けるような資金的猶予があればもっと違ったのでしょうか、当時の私はスタッフのモチベーションに頼りすぎていたのだと思います。聞かれたことには全て答えていましたが知識とは連鎖的な集合体で、断片的な情報ではそれこそトリビアにしかなりません。

ある日訪れた大手チェーンほどの規模はないにしても複数店舗もつカフェでケーキと温かいカフェラテを注文した時のこと。カフェラテの表面には「それなりの」気泡が見られケーキに添えられていたフォークは明後日の方向を向いて提供されてきました。また別の日にはドリップのアイスコーヒー注文すると、冷たいとは言えなくもないにしても、ぬるめのコーヒーが出てきてみるみる氷は無くなっていったこともありました。眩しいばかりの笑顔と共に。私が知らず知らずのうちにそこのスタッフの反感を買ってしまっていた可能性も万に一つくらいはあったのかもしれませんが。

「それくらいで」と思いますか?私は、これでいいのかと、つい偉そうにも考えてうのは考えすぎでしょうか。

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